キムソヨン監督最新作
第九を取り巻く生の物語
みんなで歌うところ、合唱団
合唱団では普通の人が集まって歌をうたいます。
ある人はこころの垢を落とす為に
ある人は第二の人生を満たす為に
ある人は生きる実感をつかむ為に
ある人は家族の絆をたしかめる為に
ある人は小さな日常からとびだす為に
ある人は傷ついた自分と仲良くする為に
ある人は人と結ばれる為に
ある人は今より若くなる為に
ある人はおもいっきり歌いたいが為に
ある人は歌うことを学ぶ為に
ある人は平和な陽だまりをひろげる為に
ある人は病と向き合う為に
ある人は愛する人を弔う為に
ある人は喜びを分けあう為に
みんなが夢中で歌っています
みんなが今を楽しんでいます
みんなが恋し、挑んでいます
みんなが物語の主人公です
主人公なんですが、普通に生きるってホントーに難しいです
だからみんなで歌っています
今まで誰も観たことのない映画が世に出ようとしています。それは、「第九」をこよなく愛する一般の人々が集った市民合唱団を描いた長編ドキュメンタリー映画『ルートヴィヒに恋して』です。
この映画には、みなさんの知っている有名な役者やアーティストは誰一人出てきません。物語の主人公は一般の人達です。彼らはどんなに売れている役者よりも自然体かつチャーミングで、リアリティーに包まれている最高の役者です。そんな彼らは年齢も経歴も、国籍も宗教も、生きてきた道筋も千差万別です。サラリーマン、専業主婦、看護師、農民、神父さん、鉄工所の作業員、エンジニア、医師…
年の頃は小学生から100歳を越えたおばあちゃん(世界最高齢、第九合唱団員?)、体に障害を持つ人も歌っています。彼らは専門的な音楽教育を受けたことがない全くのシロウトです。もちろん楽譜も、ドイツ語も読めません。一般の人が難しい「第九の合唱」に自らの意思で挑戦することは、外から見ると想像しがたく、世界中、何処にもそんな話はないそうです。彼らは、地元のアマチュア合唱団に所属し、約半年のあいだ猛練習を行い、様々な想いを胸に舞台へと向かいます。ですが、たった一度の舞台でも「歓喜」を味わうと、また歌いたくなり、歌えば歌うほど深みにはまって、いつまでも到達できない儚い気持ちを抱えて、また次の舞台へと向かうそうです。
その姿はさながら恋に落ちた人そのものです。恋の悩みほど甘いものはなく、恋の嘆きほど楽しいものはなく、恋の苦しみほど嬉しいものはなく、恋に苦しむほど幸福なことはないというように。
人の心は「愛する」為にあるといいますが、人の歌は「恋する」ためにあるのかもしれません。恋をわずらう彼らをぜひご覧下さい。
恋する彼らを応援したくなり、おのずと何か(愛と勇気と元気)が湧いてきます。
一般の人がクラシックに持つ「壁」その壁のイメージは重く、固く、退屈で好きな人だけが楽しむもの。ところが、厚い壁をぶち破って普通の人のための、普通の人による、とんでもない普通の音楽(クラシック)が生まれました。それが「第九」です。産みの親はもちろん楽聖ベートーベン、苦楽のはてに生み出したそうです。育ての親はふつうの人々、人の苦楽がじっくり染み込み育ったそうです。
言うまでもなく、普通の人の普通の生き様は「山あり谷あり平地あり」 その中に平穏な物語はなかなか見当たりません。彼らの偉大な生き様が溶け込んで、染み込んで、混ざり合い「我々の音楽」、「みんなの歌」をみごとに作り上げています。その姿を鮮明に見せてくれるのが日本の「第九市民合唱団」です。
前代未聞の役割を演じている日本の「第九」は、「聴く音楽」というより、「参加する音楽」、人と人を結ぶ交わりの音楽であり、世代を超えた融和の音楽であります。また、「第九」を取り巻く市民合唱団の営みは、人間としての尊厳を再確認し、他者との関わりから自己の存在を承認する営みであります。だからこそ、彼らの姿を映像で記録し、公開することは平和な社会を創造することに直に繋がます。総じて、日本全国に根付いている「第九合唱団」の音楽活動は日本独自のすばらしい文化活動であるからこそ、映画に収め世界に向けて堂々と発信し、それをやがて継承していく次の世代に伝えていきたいと切に願っています。
記録によると、日本で初めて「第九」が鳴り響いたのは、第1次世界大戦中、徳島の鳴門受容所に収容されていたドイツ人兵士たちによるものであった。日本人による初演は1924年、「東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽学部)よって行われ、関西では1936年、「京都大学オーケストラ」による演奏であった。日本の地で産声を上げたばかりであった「第九」はその後、数奇な運命を辿る。当時、国を取り巻く内外の状況は混沌しており、音楽の世界までも戦争の暗い影がおとされ、 数多くのクラシックの名曲と共に「第九」は戦意高揚の道具として用いられた。 特に、戦中、出陣学徒によって行われた演奏会は注目に値する。例えば「東京高等音楽院」と「東京帝国大学」の学生たちは、戦場へ出征する前、「第九」を共に歌うことで、家族と友人に別れを告げ、生きて帰って再会することを願ったという。終戦後、生きて帰ってきた出征学徒兵たちは、戦死した友人たちの霊を慰めるため、平和を祈るため、再び「第九」の演奏会を開いたが、それは、今日における「年末の第九」のきっかけにもなったという。
時は過ぎ、現在、日本における第九演奏会の殆どは、プロの指揮者とオーケストラ、ソリストと共に、アマチュア合唱団が合わさるかたちで行われている。
その原型を作り出したのは、1949年、「良い音楽を多くの人々に」というスローガンの下で合唱運動と音楽鑑賞運動を結合させた「労音」である。「労音」は1954年、勤労者、主婦、学生などで構成された1000人のアマチュア合唱団(東京労音合唱団)を舞台に立たせる初試みを行った。
その演奏会は、楽譜を読めない一般の人々で構成された史上初の「第九」公演であり、その以降、「第九」公演は地方まで拡大され発展した。 今では、「労音」以外にも、全国各地に数多くの「第九歌う会」が自律的に組織され、「第九」公演に取り組んでいる。
「芸術」は「人間」に何を寄与できるだろうか?
その答えを明確に提示している一例が、日本の「第九市民合唱団」であろう。世界中でベートーベンの交響曲「第九番」を一番多く演奏している国、日本。
例えば、戦後、1947年創設した大阪フィルハーモニーは、世界最多の「第九」の演奏を記録しており、日本の交響楽団で活動している海外出身の演奏者たちも、日本のように「第九」を演奏する国はあまりないという。ちなみに、戦後から長い間、年末に一年の締めくくりという意味を込めて、全国各地で「暮れの第九」と銘打って演奏している国は日本だけである。
ここで、刮目すべきことは、ベートーベンの交響曲「第九番」の第4楽章の合唱「歓喜の歌」を歌うために集まる人の「多様さ」である。彼らは、専門的な声楽の発声訓練を受けたことがなく、楽譜もドイツ語も読めない人である。年の頃は10代の少年から100才の高齢者、身体に障害を持つ人に至るまで様々である。 ただでさえ難曲である「第九」の第4楽章「合唱」に一般の人々が挑戦することは、どうしても想像しがたいことであり、世界何処でもそんな事例は見当たらない。 それでも、そのような大きいな壁を乗り越えて彼らは、地元のアマチュア合唱団、いわば、「労音」や「第九歌う会」という音楽活動の組織に所属し、半年ぐらいの猛練習を行い、本番の舞台に立っているのである。
このような、前代未聞の役割を演じている日本の「第九」は、「聴くだけの音楽」というより、「皆で参加する音楽」として位置づけされているといえる。 つまり、今の日本の「第九」は、単にひとつの芸術ジャンルの中の音楽というより、時代の絶望を乗り越え、「生きる喜び」へと至る「力」の源泉になった。それは、戦争や災害によってどん底に転げ落ちた心の深淵に射した一筋の光であり、悲惨な局面を共に克服して復興に奮い立たせてくれた希望の陽だまりであった。
一方、現代の「第九」は、人と人を結ぶ出会いの場であり、世代を超えた交わりの場であり、個人の悩みや内面世界を表すことで自己承認へと向かうための触媒でもある。多くは、一年を締めくくる儀礼、節目の行事としても演じられている。
この映画は、上記のように戦後から現在まで反復・拡大・再解釈され、日本社会に多様な役割を担ってきた「第九」をモチーフに、舞台に立ってきたアマチュア市民合唱団の人々の人生に秘められた哀歓を描きだそうとする。
この映画の主人公が所属するアマチュア市民合唱団。そこは、音楽を触媒にして人と人が交わる開放の空間であり、新しい自分を創りあげる創造の場でもある。例えば、多くの定年退職者が、その場を拠り所とし、より積極的で肯定的な社会参与をする。彼らは、大きいな壁を乗り越えて艱難辛苦の末に「歌」を身につける。
彼らは、身につけた歌を通して人生を語り、夢を語り、平和を語る。彼らは、芸術活動を通じて湧き上がった「平和への気づき」から、平和な社会を創造しようと他者に呼びかける。実際、戦争や災害で傷付いた心を癒し浄化してくれる芸術の可能性を体現した者も大勢いる。彼らの姿を記録、公開することは平和な社会を創造することに直に繋がり、「人間」に寄与した「芸術」の力を立証することにつながる。また、この製作活動は地方の音楽活動、文化活動を活性化することにも繋がる。「第九」を取り巻く営みは、日本が世界に向けて誇らしげに発信すべき事柄なのである。